現代における護身術

現代における護身術

いつも心に一本のナイフを。

こんにちは。サイコ田中と申します。

本日は私が10代の頃より取り組んでいる護身術について語りたいと思います。


現代人に「護身」は必要か

 

皆さんは、護身術と聞いてどんなものを想像しますか?

・襲ってきた不審者を最低限の動きで撃退

・暴れている酔っ払いをなるべく静かに制圧

・相手が手にしている凶器を奪う…etc

色々あるとは思いますが、私の経験上これらはあくまで、最終手段だと考えています。

 

私にとって、護身(Self-Defense)の究極的なゴールは、何も起こらないことです。

普通に朝起きて、通勤電車に乗り、帰ってきて寝るという一連の流れを、

「それが当たり前であるかのように」淡々とこなすことです。

 

すべての人々が、そうした平穏で安全な日常を送れることが一番理想的なのですが、

世界的に見ても治安がいいと言われている日本においてさえ、それは容易ではありません。

 

「考えすぎ」「ただの心配性」「中二病こじらせてんの?」という方は、一度想像してみてください。

・乗っている電車で突然乗客が刃物を振り回す

・薬物あるいはアルコールにより酩酊状態の相手に理由もなく襲われる

・痴漢、性的暴行の被害に遭う

挙げだすときりがありませんが、果たしてこれらは、本当に他人事でしょうか?

答えはNOです。

 

上に列挙したような危険なケース、傷害事件の類は、現在日本という国において、

いつでも、どこでも、誰にでも遭遇する可能性があるのです。

その可能性が、限りなくゼロに近いので、無視できるか、

多くの人がそのリスクを、無かったことにして生活しているだけです。

いったい誰が、「私は絶対に大丈夫」などと言えるのでしょうか。

少子高齢化が加速し、犯罪件数が減少しつつあるとはいえ、

情報化が進んだことにより人々の生活はより複雑化、多様化しています。

SNSの普及により、危険な思想を持つ人間が「見えない形で」集団を作りやすくなりました。(いわゆる「半グレ」などがいい例だと思われます)

学業や仕事がうまくいかず、悩みを抱えた若者が突如凶行に走るといったケースもあとを絶ちません。

この社会において安全な場所などどこにも無い、といっても過言ではないでしょう。

それでは一体、どうすればいいのでしょうか。

 

護身の基本「危険予知と回避」

 

護身術の基本は、とにかく危険の予知と回避です。

たとえば車や自転車を運転する際、

・学校や公園の近くでは、子供が飛び出してくる

・高齢者の運転する自転車がバランスを崩し、車道側に大きくはみ出す

・いわゆる「歩きスマホ」の若者が、信号を無視して横断歩道を渡る

こうした状況をいつも想定している人は、ほとんど事故を起こすことは無いでしょう。

逆にこうしたリスクを念頭に置いて運転しない人は、無意識のうちに危険な状況をつくり、周囲を不安にさせているかもしれません。

普段の生活でも同じように、危険な目に遭うか遭わないか、その決定的な差は、

場面ごとに想定されるリスクパターンを、きちんと把握しているかどうかという点です。

要するに、「こうなるとヤバイ」というイメージを持っていることです。

 

日常生活におけるリスクと対策

「こうなるとヤバイ」というイメージと書きましたが、具体的にどんなものがあるのか説明します。

まず、あなたが街灯の少ない暗い夜道を歩くとして、どんなことに注意しますか?

・不審な人物と遭遇したとき逃げられる道はあるか

・防犯グッズの類は持ち歩いているか

・何かあったとき助けを求められる人家や施設が周囲にあるか

色々ポイントはあると思います。皆さんはどんなことを考えましたか?

 

引っ掛け問題のようになってしまうのですが、

実は、「街灯の少ない暗い夜道を歩く」という状況がすでに危険なのです。

そのような状況においては、危険人物や犯罪者に襲われても文句は言えません。

車の運転に例えるなら、暗く見通しの悪い道路を、ヘッドライトもつけずに走行しているようなものですから、

事故を起こしてしまっても不思議ではありませんし、それは完全にあなたの自己責任ということになります。

 

車に乗っているとき、暗くなったらなるべく早くヘッドライトを点けるように、

日常生活においても、リスクを減らすための努力と工夫は必要です。

 

・帰宅時間が遅くなった 

→ なるべく明るい、交通量の多い通りを選んで歩く(遠回りになったとしても)

・駅やコンビニの周囲に若者の集団 

→ なるべく近寄らない。自然に振舞い、相手を刺激しない

・電車で性質の悪い酔っ払いと遭遇 

→ 目を合わせない。近づかない。とにかく自然体でいる

・体の大きな外国人が道を塞いでいる

→ 別の道を探す

・不審な人物に声をかけられた 

→ 素早く立ち去るか、手近な飲食店などに入る

 

シンプルですが、これらは全て危険回避への第一歩と考えられる行動です。

一番大切なことは、なんとなくいやな感じがしたら、そこから離れるということです。

それだけで、危険な状況に遭遇する確率は格段に下がります。

 

より高度な危険予知

私は学生時代、電車で通学していましたが、いつも気をつけていることがありました。

それは、ドアの近くか、非常停止ボタンのそばに立つということでした。

ドアの近くにいれば、何かあったときはすぐに降車できますし、

「ヤバイ奴」に遭遇してしまったとき、一旦降りて、別の車両に移動することも容易にできます。

また非常停止ボタンが近くにあれば、自分が乗っている車両はもちろん、別の車両で異変があったときもすぐに対処できますし、

車内で事件が起きた場合は、容疑者の逃亡を阻止する効果もあります。

 

幸いにも今日まで非常停止ボタンを押さなければいけないような状況には遭遇していませんが、

その瞬間はいつ訪れるかわかりません。今日かもしれないし、明日かもしれない。

何も起こらないかもしれないし、起こるかもしれない。この、ふわっとした不安を取り除くためには、

いつもそこにあるリスクを意識しているしかないのです。

 

リスクの存在を意識する、といってもピンと来ないかもしれませんが、一番簡単なのは、

嫌でも目に入ってくる、新聞やテレビ、ニュースサイトの情報を、自分に当てはめて受け取ることです。

 

実際にあった事件を例に挙げると、

昨年(2018年)6月、新幹線の車内で乗客が刃物で切りつけられるという事件がありました。

この事件のニュースを見て、自分に当てはめて考えた人が、どれだけいたでしょうか。

もしも自分が同じ列車に乗っていて、すぐそばに刃物を持った男が迫っていたら、一体何ができたか、

どうすべきだったのか。

ほとんどの人は、他人事のように思って、「自分は大丈夫」と高をくくっているのかもしれません。ですが、

その考え方は非常に危険です。

 

2010年代に入り、同様の事件は増え続ける一方、被害者の数は変わらないか、むしろ増加している印象を受けます。

これは、事件の報道後も、それらの情報を受け取っている人々の意識が変わっていないことを意味していると思われます。

要するに危機感が絶望的に足りないのです。だから、本当に「その日」がやってきたとき、何もできない、どうしたらいいかわからない、

ただやられるだけ、ということが起こるのです。

 

例に挙げた新幹線車内の無差別殺傷事件の場合、

・「座席を外して盾にした」

という対処法は非常に有用と言えるでしょうし、

・「ベルトを振り回すか、鞭のようにして抵抗する」

・「車内の消化器を使う」

・「トイレに逃げる」

といった考え方も、今後同様の事件が発生した際に役立つでしょう。

 

このように、実際にあった事件などから今後似たようなシチュエーションに遭遇した際の対応を学ぶことは、

非常に重要です。そしてそれがそのまま、より高度な危険予知、危険回避に繋がると私は考えます。

 

現代人にこそ求められる「護身」

私は最初に述べたとおり、護身(Self-Defense)の究極的な目標は、「何も起こらない」ことだと考えます。

つまり平穏無事に一日を過ごし、100%自分の人生に集中できるということです。

これは、ほとんどの人が掲げるひとつの理想ではないでしょうか?

 

しかしこの理想を守るために、私たちは努力しなければなりません。

自分と、自分の大切なひとを守るための努力です。

 

近年は世界的に見て情報化が加速し、端末の小型化、高集積化も進んでいます。

現代人は、たくさんの情報に囲まれて生きています。

有益な情報ばかりではありません。悪意のある、虚偽の情報を見抜く目と感性を養うことも必要です。

SNSの普及により不特定多数の人が、匿名あるいは実名でコミュニティを築き、つながる時代が来ました。

発信する情報や言葉によっては、予期せぬ敵意を生み、攻撃の対象になる可能性もあります。

端末の、画面の向こうにいる顔の見えない悪意とも、向き合わなくてはいけないということです。

 

・自分の人生を、自分らしく生きたい

・大切なひとを守りたい

・強くなりたい

 

目的は様々かもしれませんが、私はこのブログを読んで下さる方々に、たった一度きりの自分の人生を、

よりよく生きるヒントとしての「護身」を伝えられたらと考えています。

 

情報セキュリティなど、デジタル部門での護身は残念ながら、私の専門ではありません。

ですが、今日まで私が追求してきた「護身」の考え方が、苦境に立たされている誰かの救いになればと思っています。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。