私と護身術
- 2019.07.18
- 護身術
いつも心に一丁のマグナムを。こんにちは、サイコ田中です。
今日は自己紹介も兼ねて、「私と護身術」というテーマで語りたいと思います。
護身術との出会い
私は小学2年生の頃から卒業まで約五年間、フルコンタクト空手を習っていました。
スポーツも苦手で、格闘技には全然興味が無かったのですが、家の近所に指導員の方が住んでおられたことや、
両親の勧め(というよりは「やりなさい」という強制)もあって、だらだらと週三回の練習に通っていました。
五年もやっていたのに、ちゃんと昇級試験を受けなかったので四級(緑帯)止まりで、試合にも一度しか出たことがありませんでしたが、
同年代の子供より比較的体格が良かったため、組み手も喧嘩も負け知らずという感じでした。
中学に上がってからは肩を壊すまでソフトテニスに打ち込み、
テニスができなくなった後は何故か勉強にのめり込んだりして(志望校が難関校だったため)、次第に格闘技から離れていきましたが、
「のび太くん」みたいな見た目だったためよく不良に絡まれ、殴り合いの喧嘩をしていました。まだ空手を覚えていたこともあり、相手が二人くらいまでなら何も問題ありませんでした。
私が護身術と出会ったのは、格闘技のことなど完全に忘れてしまった、高校1年の秋でした。
正確に言うと、護身術に出会った、のではなく、護身術の必要性に目覚めた瞬間でした。
それまで私が経験してきた喧嘩は、文字通り「子供のけんか」だと思い知ったのです。
高校に上がって私は人生で初めて、刃物を手にした相手と対峙しました。
”格闘技”の限界
その日のことは今でも鮮明に覚えています。冷たい雨の日でした。私は不用意な発言で気性の荒い同級生の一人を怒らせ、一触即発の空気になりました。
中学まで喧嘩で負けたことの無かった私は、いつもそうしてきたように、右足を半歩後ろに下げて、軽くこぶしを握り、空手の構えを取りました。
相手の身長は自分と同じくらいでしたが、ガリガリに痩せていたので、突き(パンチ)一発で終わるだろうなどと甘い見通しでいると、
そのガリガリの不良は、おもむろに筆箱を開けて、カッターナイフを取り出したのです。
たかが、カッターです。しかし、その冷たい光を放つ刃先を目にしたとき、私は自分がいかに無力なのかを思い知りました。
体が動かなかったのです。
まったく冗談のように、身動きが取れなくなりました。
頭の中は真っ白になっていたと思います。
結局その場はガリガリの不良を柔道部員が二人がかりで羽交い絞めにしてくれたことで事なきを得ましたが、
それが学校の外の、誰も来ない路地裏の一角であったならば、私は半殺しにされていたでしょう。
それから私は、まだ混乱したままの頭で、自分の身に起きたことについて必死に考えました。
なぜ、自分は凍りついたように動けなくなってしまったのか。なぜ、何もできなかったのか。なぜ……
そうして思考を巡らせるうち、私はある決定的な事実を導き出したのです。それは、
あくまでも空手はルールの上で成り立つ”格闘技”でしかない、ということでした。
セルフディフェンス・サイコ
なぜ刃物を持った相手に対し何もできなかったのか。理由は明白でした。
刃物を持った相手を想定した訓練の経験が、全く無いからでした。
私が習っていた空手はあくまで、ルールが定められた試合で勝つことを最優先にした練習メニューで成り立っていて、
およそ実戦的とは言えませんでした。
一心不乱にミットを叩き、グローブとシンガードをつけた手足で互いの体を叩き合って、一体何になるというのでしょうか。
一本のナイフの前では、格闘技は残酷なまでに無力です。
もちろん極めればどんな格闘技でも強力な武器になるでしょう。ですがそれはあくまでも互いの安全をルールで保障され、審判という第三者に見守られた競技の場においてのみ言えることです。
ルールなど無い場末の路上で、空手の段位が、ボクシングの試合経験が、柔道の受身が、一体どう役に立つのでしょうか。
黙って銃口を向けられたら、それで終わりです。
それから私は「現実の闘い」に勝つということを必死に追求しました。すなわち「実戦」を想定した考え方です。
空手部の友人とラバーナイフでナイフディフェンスの真似事を繰り返し、試行錯誤の末に我流のDisarm(武装解除)を身に付けました。
友人らがそれらの戯れに飽きてしまって、もう誰もナイフディフェンスになど興味を示さなくなった後も、
私は一心不乱にラバーナイフを振り続けました。
その姿を見ていた友人の一人が私に言いました。
「やっぱりお前はサイコだよ、田中」
真の「護身」を求めて
私は今でも自問自答を繰り返しています。それは、
「護身」を言い訳にして「暴力」を正当化しているのではないか、ということです。
残念ながら、はっきり「違う」とは言い切れないところがあります。
私の理想とする護身の究極的なゴールは「何も起こらないこと」ですが、
それがどうしても難しい場合は、実力行使に頼らざるを得ないのが現実だからです。
今の私が高校1年の、あの雨の日に戻ったとしても、結局相手が持っているカッターは怖いままで、
目の前の現実はただひとつの真理へと導かれます。それは、
やらなければやられる、ということです。
今の私であれば、正直な話、カッターをぎこちない手つきで構えたガリガリの高校生などは、あっさり制圧できるでしょう。
しかしそれが単なる暴力ではない、護身なのだとは言い切れない部分があるのは事実です。
たとえ自分の身を守るためであっても、暴力を正当化することには違いありません。
殴られるほうも痛いし、殴るほうも痛いのです。
だから私は「何も起こらない」のがベストで、理想だと考え続けています。
向こうもこちらに危害を加えない。だからこちらも何もしない。
つまらない綺麗事のようですが、これが一番だと思うのです。
そしてこの理想が正しいと証明できる日が来るまで、私は私の「護身」を追い求め続けたいと考えています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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