現代の護身術業界について私が思うこと
- 2019.12.09
- 護身術
いつも心に1杯のセンブリ茶を。どうもサイコ田中です。
早いもので、このブログを開設してから半年が経とうとしています。
とてもグレーな分野なうえに、情報を必要とする人が限られるテーマではありますが、
今日まで1500人以上の方に、5000回以上もご覧いただいています。本当にありがとうございます。
今回は少し気が早いかもしれませんが、
「現代の護身術業界について私が思うこと」と題しまして、
今年のまとめに近い記事を書きたいと思います。
護身術は本当に役立つのか?
かれこれ10年以上護身術を学び続けている私がいつも繰り返している自問自答があります。
それは、「自分が学んでいるこの技術は、本当に使えるのか?」ということです。
毎日のように繰り返す一連の動きや対人練習は、決して無駄にはならないでしょう。
ですが本気で身を守らなければならないような状況というのは、いつも想像を絶する恐怖や不安と隣り合わせに違いありません。
刃物を持った酩酊状態の薬物中毒者には、話し合いの余地などありません。
言葉の通じない外国人の集団を敵に回した場合、いきなり殴られても文句は言えません。
このような極限状態において、日々の鍛錬が一体どれほどの力を持つでしょうか?
私たちは通常、本気で第三者から殺意を向けられることは滅多にありません。
拳銃やライフルを持った攻撃者に命を狙われるという経験も皆無に等しいと言えます。
誰も経験がなく、見たことも聞いたこともないようなシチュエーションを想定した訓練に、
果たしてどれだけの実用性と効力が認められるのでしょうか。
私がこの10年以上抱え続けている唯一の疑念、それは(特に日本人にとって)ほとんど縁のない暴力というものに対して、
人はどんな距離感を保ち、どのようなイメージを持って対策を講じるのか、
実はそれを誰も知らないのではないか、ということなのです。
日本の護身術業界に限界を感じる3つの理由
ここでは私が現代日本における護身術業界にある種の限界を感じる理由を、
3つの項目に分けてお話しします。ややネガティブな表現も多くなるかと思いますが、
護身術や防犯対策に興味をお持ちの方は参考にしてください。
治安の良い日本では学ぶ意味がほぼ無い
日本は世界的に見ても驚くほど治安の優れた国です。
警察の捜査能力は極めて高く、犯罪検挙率は2000年代初頭からうなぎ登り、
高度な都市化と情報化により個人の防犯意識も高まり、暴力団なども確実にその勢力を失いつつあります。
そんな治安に優れた安全な国の小さな町で、どれだけ必死に身を守るテクニックを学び覚えたとしても、
恐らくそれらを実際に使う機会はほぼ無いと言っていいでしょう。(それは素晴らしいことに違いないのですが)
日本において暴行などの犯罪被害に遭う確率は実に0.02%(2018年現在)、
更に傷害事件などの被害に遭い命を落とす確率は、たったの0.0007%と、もはや考慮にも値しない確率です。
統計的に見れば宝くじの1等賞を引き当てるよりも低い確率なのですから、
護身術を学ぶという行為は、当たりもしない宝くじの1等を当てた時のことを想像しながら、
あれこれ物思いにふけるようなものだと吐き捨てられても仕方がありません。
護身術などを学ぶ時間やお金があったら、全然違うことに使ったほうが遥かに有意義に違いないのです。
(当ブログでは再三にわたって「犯罪被害は決して他人事ではない」とお伝えしてきましたが、これが現実です)
勝てない相手にはどうやっても勝てない
どんなことについても当てはまることだと思いますが、
本気で取り組めば取り組むほどに、その厳しい現実ははっきりと見えてきます。
自分よりも体の大きい相手や刃物を持った攻撃者を倒すのは、至難の業です。不可能に近いと言い換えてもいいかもしれません。
生涯無敗を貫き通したとされる伝説の剣豪・宮本武蔵の逸話はあまりにも有名ですが、
結局のところ武蔵は、自分の実力で確実に勝てる相手だけを対戦相手に選んでいたに過ぎません。
(私個人としましては、ボクシングのフロイド・メイウェザー.Jrにも近いものがあると感じています)
逆の言い方をすれば、勝てない相手には何をやっても勝てないということです。
その現実から目を逸らさせるかのように、
「体の大きな相手に勝つ方法」だの「ナイフを持った相手の倒し方」だのを紹介する指導者やYoutube上の動画には、
ある種の悪意が潜んでいるとさえ感じるほどです。
当ブログでナイフディフェンスや体格差が大きい場面での対処法をほとんど扱わない理由は、
それらが気休めにしかならない可能性を否定できないからに他なりません。
本気で護身術を学んでいる人間なら、出てくる答えは一つです。
「ダッシュで逃げろ。それしかない」
凶器攻撃はどうすることもできない
今年(2019年)も、全国いたるところで傷ましい事件が発生しました。
7月に発生した京都アニメーション放火殺人の衝撃は凄まじく、
5月には神奈川県川崎市で、登校中の小学生が刃物を持った男に次々と切りつけられるという想像を絶する事件も起きています。
現実的な問題として、凶器を手にした攻撃者を制圧するのはあまりに困難です。
一瞬の認知・判断の遅れが命取りとなる上に、武装解除や制圧に至ってはたった一度のミスも許されません。
相手がもしも目視で確認しづらい、小さな凶器を手にしていたら、
あるいはナイフのような刃物を2本以上携行していたとしたら、ほぼ命の保証はないと言っていいでしょう。
それは10代の頃よりナイフディフェンスを学び続けてきた私自身についても同様です。
(普通の人より生き延びられる時間が少し長くなるだろう、ぐらいにしか思っていません)
上で述べた通り、勝てない相手には何をやっても勝てません。現在の日本国内において、
通り魔事件の現場などの極限状態において本当に使えるナイフディフェンスを学べる場所や機会はあまりにも限定的であり、
軍隊や民間警備会社主催の法人向けセミナーにでも参加しない限りまず習得できません。
個人の力ではどうすることも出来ない厳しい現実があるということを、決して忘れないでください。
自分らしく生きるためのヒントとして
護身術を学んでも、待ち受けているのはあまりに厳しすぎる現実です。無意味かもしれません。
それでも私が護身術を学び続けるのは、「自分が自分らしくあるため」です。
正直にお話しすると、私は学生時代にいじめの加害者と被害者の両方を経験しています。
言葉や行為による暴力によって、個人の尊厳や自由な発言の権利、自己肯定感が踏みにじられるのは耐え難いことです。
暴力に屈することは、自分が自分でなくなることと同義だと私は考えています。
当時中学生だった私は悩みに悩みぬいた末に、
「自分自身が強くなることでしか自分を取り戻せない」という結論に至りました。
それは私が本気で格闘技、護身術にのめり込むきっかけともなった気づきでした。
結局のところ暴力は犯罪でしかなく、暴力に暴力で応じるなどという行為は、恥ずべきことなのかもしれません。
ですが私は、人が自分らしく生きるために、ある種の「強さ」が必要であるという考えを変えるつもりはありません。
どんな厳しい環境や境遇に生まれていても、その人の人生の価値はいつも、本人だけが決められるべきです。
そしてそのスタンスを明らかにするためにも、人は強くなければいけません。いかなる圧力や不当な暴力にも屈しない力が必要です。
私は今日まで、誰かが自分らしく生きるためのヒントとして、このブログを書き続けてきました。
私が今日までお伝えしてきた情報はもしかしたら、あまり価値のないものだったかもしれません。
ある人にとっては、全然意味がないものだった可能性すらあるのです。
それでも私は、それを必要としてくれる人がいると信じて、これからも記事を書き続けたいと思っています。
私が自分を変えたくて護身術に救いを求めたのと同じように、
今日もどこかで自分を取り戻すための戦いを続けている誰かの支えになれたなら、これ以上の喜びはありません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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