【銃社会の闇】ケノーシャ銃撃事件は何が問題だったのか?

【銃社会の闇】ケノーシャ銃撃事件は何が問題だったのか?

いつも心に1本の高級刺身包丁を。どうもサイコ田中です。

米ウィスコンシン州ケノーシャでは、8月23日の黒人男性銃撃事件から始まり、

同月25日には17歳の少年が抗議デモ参加者を殺傷するなど緊張した状態が続いています。

現在逮捕・起訴されている17歳の少年カイル・リッテンハウス容疑者は自身のSNSにおいて、

自らを自警団員と名乗っていますが、彼の行為は明らかに自衛の域を超えています。

今回はこの事件が抱える問題について、現代護身術の観点から解説したいと思います。


自衛(護身)と暴力の境界

管理人は学生時代からナイフディフェンスなどを扱う実戦的な護身術を学んでいますが、

今でも級友の一人だった留学生の男子生徒の問いかけが脳裏をよぎります。

「君はそれを護身術と呼んでいるけど、それだって暴力じゃないか」

当時の私には返す言葉が見つかりませんでした。そして今でも答えに窮してしまうのが事実です。

 

まず基本的な前提として、暴力を用いてくる相手に対しては、

それを圧倒する暴力で応じるほかにありません。

そうしなければ、自分が危険に晒されることになるからです。

攻撃者は自分から止まったりはしませんし、普通はこちらの説得などにも一切応じません。

何も抵抗しなければ一方的に傷つけられるか、最悪の場合命を落とす恐れもあります。

相手を傷付けることは決して好ましくはなく、可能な限り回避すべきには違いありませんが、

「やらなければやられる」という現実の前には何とも無力な綺麗ごとに過ぎません。

拳を振り上げる相手にはナイフを、ナイフを持った相手には銃を。

常に相手を圧倒することが身を守るための最も基本的なルールです。

 

とはいえ「自分の身を守ること」(護身)を言い訳にして危険なものを持ち歩いたり、

ナイフや銃の携行が正当化されるというのも許されることではありません。

今回アメリカ・ウィスコンシン州で発生した事件においても、

逮捕された少年は自衛(自警)を主張しライフルを所持していたということですが、

最初から誰かを撃つつもりで持ち歩いているなら、それはただの凶器に他なりません。

「身を守るために仕方なく、やむを得なかった」という状況ならば話は別ですが、

完全に武装した状態で「襲われたので撃ち殺した」というのは、単なる一方的な暴行であり、

弱い者いじめと呼ばれても仕方ないでしょう。

(逮捕されたカイル少年は確かに武装した複数名の男性から襲撃を受けていますが、

それが自衛・護身の範疇内だったかは判断が分かれそうです)


“Kenosha Shooting”に見る銃社会の闇と集団心理のリスク

ここからはいわゆる”Kenosha Shooting”から見えてくるアメリカ銃社会の闇と、

集団心理がもたらす致命的なリスクについてお話しします。

最近日本で頻発する無差別殺傷事件とも関連するところがありますので、

防犯・護身に興味をお持ちの方は一度参考になさってください。

 

自分から危険な場所に近づくという愚行

現代護身術において、危機管理の基礎として、

「危険な場所に近づかない」というものがあります。

(雰囲気の良くないクラブやバー、風俗店街がある通りなどが典型例です)

 

これに対し逮捕されたカイル少年は、

ライフル・防弾ベストで完全武装のうえ、

自分から興奮する人々の集まるデモの現場に向かっています。

これでは身を守る目的ではなく、最初から攻撃することが目的だったと捉えられても仕方ありません。

(色々な考え方がありますが、あくまで現代護身術の観点で見た場合の意見です。ご了承ください)

 

もちろん彼はデモ隊と衝突している人々と地域住民の安全のためにそうしたと主張するのでしょうが、

本当に地域の人々の身を案ずるなら、ライフルのようなものを持って最前線に近づくべきではありません。

また自分自身の身を守るための発砲にしても、

そもそも自分が最初からそうした反撃が必要な場所に接近し、

そうした危険なシチュエーションに遭遇するリスクを最小化していれば全く必要無かったのであって、

彼の行動は自警(護身)を称するにはあまりに杜撰であり、無責任な印象を拭えません。

 

過剰な武装は相対する攻撃者を刺激する

当ブログでは再三にわたり「ファイティングポーズを取るのはNG」と述べてきましたが、

その最たる理由は「相手を刺激するから」に他なりません。

 

もしもあなたがナイフや銃を持っていればそれを見たほとんどの人は萎縮するでしょう。

これが凶器の持つ一つの強みであると同時に、致命的なリスクでもあるのです。

普通の精神状態の人が凶器を見れば先に述べた通り萎縮するか恐怖・不安に駆られ身動きが取れなくなりそうですが、

最初から刺激を受けて興奮状態にある人物に対しては、真逆の反応を引き起こす恐れがあります。

特にデモのような人が集まり異常な興奮状態にある場合は集団心理も働くため正常な判断が難しく、

「自分は撃たれても平気だ」と勘違いした一部の人物が、過激な行動を取ることも十分に想定されます。

結果的に銃を持った人物が本当に銃を使って反撃しなければならないような状況を引き起こし、

被害が出て初めて周囲の人間が冷静になるという最悪の事態につながるわけです。

(冷静になった時にはもうすべてが手遅れなのですが)

 

事件が発生した当時の映像を見る限り、デモの現場にはカイル少年を含め複数の武装した人物の姿があり、

いつ何が起きてもおかしくない雰囲気が出来ていたのも事実です。

(遠くから銃声が聞こえる、物を投げる・車を壊す人物がいる…etc)

このような状況でライフルを持って堂々と興奮した人々の集団に近づき、

威圧的な態度を取っていれば、銃を抜かなければならない事態が発生するのは時間の問題でしょう。

 

集団心理が持つ危険性については、以下の記事でも詳しく解説しています。

↓ ↓ ↓

香港デモ・渋谷ハロウィンに見る集団心理の危険性

 

ライフルの殺傷力は「自衛」の域を超えている

そもそもライフルの殺傷力は、護身・自衛の範疇をすでに超えており、

凶器と言い換えても全く違和感のないものです。

 

アメリカは銃社会であり、子供から大人まで米国籍さえ取得していれば、

そこら辺のショッピングセンターで銃を購入できてしまいます。

(日本ではコンビニの店頭に堂々とポルノ雑誌が陳列されていることが問題視されていますが、

社会的な有害性としてはそんなものの比ではありません)

17歳の少年が29歳の男性を倒すのは体格差や運動の経験などを考慮しても、

かなり困難なことが想像されますが、銃はその壁をあっさりと崩してしまいます。

銃に限らず凶器に類するツールの危険なところは、

無抵抗の相手もそうでない対象も、

性別・年齢・体格差などに関係なく、一方的に殺傷できるという点です。

日本でも年に数回程度は刃物などを用いた無差別殺傷事件が発生していますが、

このような場面で銃を抜くというのであれば納得がいきますが、

非武装の、まして争う気など最初から無い人物の混ざった集団に対して銃を向けるなどは言語道断であり、

それが自分や周囲の人間の守るためだったとしても、許される行為ではありません。

 

当ブログでは何度も繰り返しお伝えしていますが、

自分の身を守るために危険な道具を持ち歩いたり、

護身と称して凶器に類するものを所持してはいけません。

あくまでコレクション、趣味程度にとどめておきましょう。


「狂気を内包した正義」という危険因子

今回の事件で逮捕された17歳のカイル少年がどのような思想を持ち、

どのような動機で当時デモの現場にいたのかは定かではありませんが、

彼の持つ正義感がある程度歪んだものであったことは、想像に難くありません。

 

人を守るため、治安を維持するためという動機はもっともらしく聞こえの良い理由ですが、

そんなものは最初から警察に任せておけばいいことです。

そもそも「身を守るための自衛行動」というものは、

それが必要な差し迫った場面で、やむを得ずそうするというのが妥当であり、

最初からライフルを持って緊張の高まった場所に出向いているのですから、

それはセルフディフェンス(自衛)ではなくハンティング(狩り)のようなものです。

(少し過激な表現になりますが、少なくとも管理人の目にはそのように映りました)

誰かを守りたいという気持ちを持っていることや、ルールや法を遵守すること自体は素晴らしいことですが、

そうした正義感から独善的で自己中心的な思想に染まったり、

狂気や悪意のようなものを正義感とはき違えるのはあまりにも危険です。

カイル少年の正義感が純粋なものであったならば、ライフルを持って出歩いたりなどせず、

事態の収束を願いながら自宅で警察官になるための勉強をしていたはずです。

結局彼は「住民の安全を守るため」持っていたライフルで、2人の男性を射殺してしまいました。

もはや彼に語るべき平和も正義も、理想も何もないでしょう。殺人犯になってしまえばそれまでです。

 

現代護身術における状況コントロールの最も理想的な形は、

「全員が無傷で自宅に帰ることが出来る」というものです。

歪んだ、そして無責任な正義感を振りかざしたりせず、

誰も傷つかない道を探っていく事が本当の自己防衛・護身ではないでしょうか。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。